ログイン誰かに取れと言われたからではない。 肩書が必要だからでもない。 今。 自分が医師として。 もう一度、進みたいと思った。 「研究については」 診療科長が資料を確認しながら尋ねる。 「以前、関心があると伺っていましたが」 「はい」 綾香は答える。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えた言葉を思い出す。 「将来的には」 「また研究へ戻りたいと思っています」 「ただ」 迷わず続けた。 「今は、臨床へ戻ることと」 「専門医取得に向けた研修を優先したいです」 「すぐに研究時間を希望するわけではない?」 「はい」 「まずは、目の前の仕事を」 「きちんとできるようになりたいと思っています」 診療科長が。 静かに頷いた。 「分かりました」 研究を諦めたわけではない。 けれど。 採用されるために。 研究もできますと付け足さなかった。 今の自分が。 何をしたいのか。 はっきり伝えられた。 プロジェクトについても。 現在、臨床側の医師として参加していること。 頻度は高くないこと。 病院勤務へ支障が出ない形で継続したいことだけを説明した。 詳しい内容までは話さなかった。 今日決めたいのは。 プロジェクトの働き方ではない。 私が。 この病院で働けるのか。 専門医取得へ向けて。 もう一度進めるのか。 その二つだった。 その後。 勤務日数。 病棟と外来の割合。 当直を始める時期。 給与や休暇について確認した。 簡単ではない。 忙しくなる。 病院勤務へ慣れるだけでも。 時間がかかるだろう。 その上で。 専門医研修を進める。 月に数回は。 クリニックでも診療したい。 それでも。 やってみたいと思った。 面談が終わる頃には。 その気持ちは。 見学の日より、ずっとはっきりしていた。 *** 会議室を出る。 真帆が。 すぐに隣へ並んだ。 「どうだった?」 「思ってたより」 綾香は少し考える。 「ちゃんと大変そうだった」 真帆が吹き出す。 「何それ」 「でも」 綾香は続けた。 「ここで働きたいと思った」 真帆の表情が。 少しだけ柔らかくなる。 「専門医のことも聞いた?」 「うん」 「前の研修」 「全部なくなったわけじゃないって」 口にすると。 ようやく実
「急に全員を手放すのではなく」 「病院勤務へ支障が出ない範囲で」 「診療を続けたいと思っています」 「毎週固定の勤務は難しい可能性があります」 事務担当者が言う。 「病棟や当直との調整が必要になりますので」 「承知しています」 「病院の勤務を優先した上で」 「月に何回可能なのかを相談したいです」 以前なら。 条件が難しそうだと思った時点で。 希望を引っ込めていたかもしれない。 でも。 続けられない働き方を。 採用されるためだけに受け入れても意味がない。 診療科長が頷く。 「月に数回であれば」 「勤務開始後の状況を見ながら、調整できると思います」 確約ではない。 それでも。 最初から否定されなかった。 綾香は。 小さく頭を下げた。 「ありがとうございます」 「それから」 専門研修担当の医師が。 別の資料へ手を伸ばした。 「専門医取得についても」 身体が。 少しだけ強張った。 「以前の研修歴を確認しています」 綾香は。 膝の上で指を重ねた。 大学病院にいた三年間。 指導医のもとで診療し。 必要な症例を経験し。 記録を残していた。 専門医取得へ向けた研修は。 着実に進めていた。 ただ。 まだ十分ではなかった。 取得が見えるところまで。 進み切っていたわけではない。 結婚を機に病院を離れ。 その積み重ねも。 途中で止まった。 「現在の制度との照合が必要です」 医師は慎重に続けた。 「当時の研修内容が」 「すべてそのまま認められるとは限りません」 予想していた答えだった。 制度が変わっている可能性もある。 不足している症例も。 新たに必要になる研修もあるだろう。 「ただ」 医師が資料へ指を置いた。 「研修歴や症例記録は、かなり残っています」 綾香は顔を上げた。 「すべてを一から始める必要はないと考えています」 一瞬。 言葉の意味が。 胸の中へ入ってこなかった。 「残っている記録を確認して」 「不足している症例や研修内容を整理した上で」 「改めて研修を再開する形になるでしょう」 再開。 その言葉が。 胸の中へ落ちる。 最初からではない。 だからといって。 すぐ取れるわけでもない。 以前積み上げたところから。 足りないものを確認して。
面談の日は。 思っていたよりも早く来た。 午前中。 綾香は、いつも通りクリニックで患者を診た。 症状を聞いて。 検査結果を確認して。 薬の変更について説明する。 次の予約を決め。 カルテを閉じる。 最後の患者を見送るまでは。 普段と何も変わらなかった。 けれど。 白衣を脱ぎ。 ジャケットへ袖を通した瞬間。 少しだけ、呼吸が浅くなった。 今日は。 見学ではない。 本当にここで働く可能性を持った医師として。 真帆の病院へ行く。 鏡の前で髪を整える。 派手ではないブラウス。 落ち着いた色のジャケット。 面接というより。 働き方を確認するための面談だと聞いている。 病院側が私を見るように。 私も。 自分が働ける場所なのかを確かめる。 そう思っていても。 緊張はしていた。 更衣室を出る。 院長室の前を通りかかった時。 ちょうど扉が開いた。 隼人くんが。 手元の書類を見ながら出てくる。 白衣姿。 院長の顔。 けれど。 こちらに気づいた瞬間。 目元が少しだけ柔らかくなった。 「もう行く?」 「うん」 自然に敬語が落ちた。 隼人くんは。 廊下の時計を見る。 「時間、大丈夫?」 「余裕あります」 「そっか」 周囲には。 まだスタッフがいる。 隼人くんはそれ以上近づかず。 普段と変わらない距離で立っている。 「昨日、話してたこと」 声を少し落とした。 「ちゃんと聞いてきて」 研究へ戻るのは今ではない。 まずは臨床へ戻り。 専門医取得に向けた研修を、もう一度進めたい。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えたこと。 「うん」 綾香は頷いた。 「病院に合わせるだけじゃなくて」 隼人くんが続ける。 「綾香ちゃんが続けられる場所か、ちゃんと見てきて」 以前の私なら。 採用されることを優先したと思う。 何曜日でも働けます。 当直もできます。 必要なことは全部やります。 そう答えて。 自分の希望は。 最後まで言わなかったかもしれない。 でも。 今日は違う。 「分かった」 答えると。 隼人くんが、小さく笑った。 「終わったら」 「一番に話す」 綾香が先に言う。 隼人くんは。 少しだけ目を見開いた。 それから。 嬉しそうに頷く。 「うん」 *
綾香が専門医取得の準備を順調に進めていて。 大学病院を離れたことを。 大貴は知っている。 「だから」 綾香は、指先を重ねた。 「まずは病院で働くことと」 「専門医を取ることを」 「ちゃんとやりたい」 「研究も一緒にやるのは難しい?」 大貴の声に。 責める響きはなかった。 純粋に。 可能性を確かめるような問いだった。 以前の綾香なら。 できると答えたと思う。 病院も。 専門医も。 研究も。 クリニックも。 プロジェクトも。 予定を調整すれば。 全部できるかもしれない。 時間を削れば。 周囲へ迷惑をかけないようにすれば。 やれるはずだと考えた。 「できないとは思わない」 綾香は正直に答えた。 「でも」 少しだけ。 言葉を選ぶ。 「始めたら、私はたぶん」 「研究も中途半端にできない」 資料を読む。 考える。 必要だと思えば。 仕事が終わった後にも時間を使う。 忙しいと言えず。 求められたことを全部抱える。 そして。 どれも思うようにできなければ。 自分の努力が足りないと思う。 「病院へ戻ったら」 綾香は続ける。 「まずは、そこで働けるようになることに集中したい」 「専門医の研修も再開したい」 「目の前の患者を診ることを」 「後回しにしたくない」 大貴は。 何も言わず、こちらを見ていた。 「今の私がやりたいのは」 綾香は顔を上げる。 「臨床側で、もう一度きちんと頑張ることだから」 声には。 思っていたよりも迷いがなかった。 研究に戻りたくないわけではない。 怖くて逃げているわけでもない。 今。 自分が進みたい順番を。 自分で決めただけだった。 しばらく。 誰も口を開かなかった。 店内には。 食器が触れる小さな音と。 周囲の話し声だけが流れている。 やがて。 大貴が椅子の背へ身体を預けた。 「前の綾香なら」 少しだけ笑う。 「全部やるって言っただろうな」 綾香も。 小さく笑った。 「私も、そう思う」 「病院も」 「専門医も」 「研究も」 「全部できますって」 「しかも、本当にやろうとする」 「うん」 否定できなかった。 大貴は。 手元の資料を閉じる。 「じゃあ」 少しだけ声を落とす。 「研究には戻らないってこと
翌朝。 目を覚ました時。 最初に思い出したのは。 昨夜、隼人くんから届いた言葉だった。 『俺がいい時は』 『遠慮しないで呼んで』 枕元のスマホへ手を伸ばす。 画面を開くと。 最後のやり取りが、そのまま残っていた。 『会いたくなるから』 思い出しただけで。 胸の奥が、少しだけ温かくなる。 けれど。 今日は。 いつまでも、その余韻に浸っているわけにはいかなかった。 午後。 石川先生と大貴に会う予定がある。 以前。 久しぶりに研究室へ顔を出した時。 石川先生と。 また研究について話す機会を持った。 クリニックで患者を診るようになってから。 大学病院にいた頃とは違う疑問を持つようになったこと。 優から依頼されて参加したプロジェクトで。 臨床側の医師として意見を出す中でも。 研究につながりそうな問いが、いくつか見えてきたこと。 大貴とも。 また何か一緒に考えられるかもしれないと話した。 研究室へ行ったことは。 間違いではなかったと思う。 離れていた場所を。 必要以上に怖がらなくてよくなった。 研究をしていた頃の自分も。 そこで積み重ねた時間も。 全部なくなったわけではないと分かった。 でも。 だからこそ。 今の気持ちは。 きちんと伝えておきたかった。 *** 待ち合わせは。 大学病院の近くにある、小さなカフェだった。 店内へ入ると。 奥の席で、大貴が手を上げた。 向かいには。 石川先生が座っている。 「お疲れ」 「お疲れさま」 綾香が席へ着くと。 大貴が、テーブルの上の資料をこちらへ向けた。 「一応、ここまで整理した」 プロジェクトで出てきた論点。 そこから研究として検討できそうなこと。 大貴と石川先生が。 簡単にまとめたものだった。 綾香はページをめくる。 以前なら。 すぐに考え始めていた。 どのデータが使えるのか。 何を比較するのか。 どこまでなら一つの問いとして成立するのか。 今も。 考えようと思えば考えられる。 興味がないわけではない。 むしろ。 見ているうちに。 少しずつ頭が動き始める。 その感覚に。 懐かしさもあった。 「綾香」 大貴が、資料の一部を指で示す。 「この前話してたところ」 「うん」 「石川先生とも見たけど
『何回言っても足りないので』 『じゃあ明日も言う?』 『言うかもしれない』 少しして。 『来てほしい時は』 『ありがとうより先に呼んで』 指が止まった。 来てほしい時は。 ありがとうより先に。 呼ぶ。 私は。 誰かへ頼る前に。 相手の都合を考える。 忙しいかもしれない。 迷惑かもしれない。 嫌がられるかもしれない。 そうやって。 頼る前から諦める。 今日だって。 何度も迷った。 隼人くんを呼ぶ理由なんてないと思った。 自分で断ればいい。 自分で帰ればいい。 それでも。 一人では無理だと思った。 だから。 初めて呼んだ。 そして。 隼人くんは来てくれた。 理由を聞かず。 困った顔もせず。 私の隣へ立った。 画面の上には。 隼人くんの言葉が残っている。 来てほしい時は。 呼んで。 綾香はスマホを持ったまま。 しばらく動けなかった。 今日だけではなく。 これからも。 本当に。 呼んでいいのだろうか。 困った時。 会いたい時。 一人でいたくない時。 隼人くんを。 私は。 どこまで頼っていいのだろう。 指先が、ゆっくり動いた。 『また』 そこまで打って。 一度、止まる。 消そうかと思った。 でも。 消さなかった。 続きを打つ。 『また、頼ってもいい?』 送った瞬間。 胸の奥が少し痛くなった。 怖かった。 頼りたいと思っていることを。 本人へ知られるのが。 隼人くんがいなくなったら。 また、一人で立てなくなるのではないかと。 どこかで思っている。 既読がつく。 けれど。 返事はすぐには来なかった。 数秒。 それだけなのに。 長く感じる。 重かっただろうか。 恋人になったばかりなのに。 期待しすぎただろうか。 不安が膨らみ始めた時。 画面が動いた。 『何回でも』 息が止まる。 続けて。 『俺じゃない方がいい時は』 『無理に選ぼうとしなくていい』 綾香は画面を見つめた。 何でも自分へ頼ってほしいと。 そう言うのではない。 私が選ぶことを。 ちゃん
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。